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help リーダーに追加 RSS 1300年つづく会議

<<   作成日時 : 2008/05/08 23:04   >>

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今から2000年ほど前の垂仁天皇の時代、もしかするとそれよりも遠い昔、どこからかシナツヒコ(級津彦)というリーダーに率いられた一団が海を渡って現在の神奈川県二宮町あたりに上陸し、せっせと土地を拓いてのちにシナガ(磯長)と呼ばれるクニを作った。
四国の讃岐地方からは別の一族がやってきて、二宮よりもさらに東、今の高座郡寒川町あたりに上陸すると、やっぱりせっせと開拓を進めてサガム(相武)というクニができた。
シナガの神殿ではシナツヒコが神と崇められ、サガムの宮では一族の神である寒川比古と寒川比女(サムカワヒコ・サムカワヒメ)が祀られた。現在はそれぞれ川匂神社、寒川神社と呼ばれるお社だ。

さて大化の改新(646年)や大宝律令の制定(701年)など日本の中央集権化が進んでいくなか、各国のトップとして「国司」が中央から派遣されることになった。現在の県知事的な存在だった国司は、任命後まずはその国の有力な豪族へのあいさつ回りに出ないといけない。
それぞれの豪族が崇める神様を順番に巡っていくわけだが、国司が最初に巡拝する神社は「一之宮」と呼ばれ、以下「二之宮」「三之宮」とランク付けがされていた。


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                            各神社の「神体石」

つまりシナガの国であれば当然川匂神社に、サガムであれば寒川神社に真っ先に詣でることになるのだが、厄介なことにこの2国は合併させられ、相模(さがみ)という一つの国になってしまった。
そうなると問題はシナツヒコとサムカワヒコ、どっちの神社を「一之宮」とするかだ。
両者を含む新生相模国の有力神社が集められ、議論が尽くされたがいつまでたっても決まらない。
どちらかが身を引けば円満解決だが、シナガ・サガム各国のオリジネーターとしては、やはり両神社とも妥協するわけにはいかなかったのだろう。

しかし他の神社にしてみればどっちが一之宮になろうが正直どうでもいい心境だったにちがいない。
いよいよしびれを切らした比々多神社(現在の伊勢原市に鎮座・三之宮)が割って入って
「なに、まだ決まんないの?もうどっちでもいーじゃん。何時間かかっちゃってんのよまじで。いやそろそろいいかげんにしてくださいよ。もうみんなおなかペコペコだからとりあえず来年決めよう。ね?」ということでこの問題は翌年に持ち越された。
次の年もまた次の年も同じ会議が開かれたが、相変わらず結論が出ない。というか結局2008年の今年も決着はつかなかった。
なんとも信じがたいことだが、この「一之宮問題」はおよそ1300年間、「来年」に持ち越され続けているのである。
                          
                               @座問答
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毎年5月5日に大磯町の神揃山(かみそろいやま・磯小定番の遠足コース)で催される座問答という儀式がそれだ。
川匂神社(二宮町)、寒川神社(寒川町)、比々多神社(伊勢原市)、前鳥神社(平塚市)、平塚八幡宮(平塚市)の五社が集まると、川匂神社と寒川神社の宮司がそれぞれ虎の皮を持って注連縄の張られた結界内に入る。

毎年あまりにも変わらない展開に「今年もどうせ決まんないんでしょ?じゃあさ、じゃもう要点だけパパッとやればいいよ」的展開になったものか、今やこの会議は終始無言&超シンプル。
虎の毛皮は神の座を表わし、それを川匂神社が上座に向かってズイと押し出す。続いて負けじと寒川神社がズズイと自分の虎皮をその前に進める。これを三回繰り返したあと、前鳥・八幡宮と相談した比々多神社の宮司が「まづは明年まで」と宣言して終わる。30分もかからない。

ちなみに現在、一般的には寒川神社が相模国一之宮、川匂神社が二之宮ということになっている。
そもそも川匂神社の鎮座まします自治体名からしてすでに「二宮町」だ。
この問題がどういう顛末をたどったのか定かではないが、いずれにしても座問答という一之宮会議は毎年毎年開かれ続けている。
何も決まらない会議でも、1300年間続けば県指定無形文化財という扱いになるのだ。

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この座問答が行なわれる国府祭(こうのまち)自体は、奈良から平安時代にかけて国府で催されてきた複数の儀式の集大成。

まず年に一度、国内の主要な神社を集めて国司が幣帛(へいはく・神に捧げる衣服や武具やごちそう)を配り、ついでに有力な豪族も呼んでどんちゃん騒ぎと相成る「班幣・はんぺい」というイベント。

それから国府の近くに建てられた「総社」に、一之宮から五之宮までの神社の分霊を迎える儀式。
着任直後の国司が国内の神社に一之宮から挨拶していく巡拝も、結局手間や費用がかかりすぎてめんどくさいということで、総社に神様をまとめて祀って一気に参拝をすませてしまおうというかなりぐうたらな簡略化がなされた。

おかげでこれまた年に一度、国司ではなく各地の神社のほうからお神輿に分霊を乗せてわっしょいわっしょい国府近くの総社まで出向いてこなければならなくなった。川匂神社は大磯の隣町にあるからまだいいが、比々多神社ともなれば伊勢原から重い神輿を担いでこなければならないのだ。
今でこそ途中まではトラックで運ぶようになったが、先人の苦労は計り知れない。

Aトラックでやってくる寒川神社の神輿画像 
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                                          「大矢場」に入場する六所神社の神輿

こうして長い道中を旅してきた神々をなぐさめるために供されたという「鷺の舞」や「龍の舞」なども、舟形の舞台上で舞われる。

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「鷺」「龍」「獅子」と三様の舞があるが、正直かぶりものを取り替えただけで動きは同じように見える。
ストUのリュウとケンぐらいの違い


室町時代までには完全に消滅してしまった国府に関する祭が、武家社会の時代をも生き延び現代にまで伝えられている背景には、相模国が鎌倉幕府の所在国だったために源頼朝が手厚くこの祭りを保護したこと、その後の小田原北条氏、江戸時代に入ると徳川家からも篤い崇敬を受けたため、ということらしい。

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5〜6年前、いわゆる「平成の大合併」などという熱病みたいなものに浮かされて、大磯・二宮・平塚・茅ヶ崎・藤沢・寒川の6市町が合併、「湘南市」という政令指定都市を設立させようという計画が生まれたが、結局1年程度であっさり流れた。
お気づきのとおり、この6市町のうち茅ヶ崎と藤沢以外は座問答でおなじみのメンツである。


きっと市役所の場所取りで、また1000年以上ももめたくなかったんだろう。

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むかしむかしの往古の昔、今は大磯町の西小磯あたりに10才ぐらいの子どもが一人現れ、狂ったようにぴょんぴょん跳ね飛びながら 「我はこれ大和国広瀬の神なり。当所守護の因縁有り鎮守と敬むべし、成して守るべし」と叫んでいたかと思うと、べったり地面にひれ伏した。 今から二千年以上前の紀元前89年にその創建をさかのぼるという、奈良県の古社、廣瀬大社の神が子どもの姿を借りて現れ、この土地を守ってあげるから祀りなさいと告げたというのだ。 廣瀬大社は大和川、曽我川、飛鳥川など奈良盆地を走る... ...続きを見る
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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
イスラエルとパレスチナも、こんな平和な会議だったらねえ、、、。 なんつって。
ささみな
2008/05/10 21:22
まあ、単に問題を先送りしてるだけといえばそうなんだけど。

それで1300年間平和なら言うことないやねー。
磯っこ
2008/05/15 00:18

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